──この山は、まだ戦を終えていない。
【序章】静寂の山へ
都心から電車でおよそ一時間。
高尾駅を降り、城山の麓へ向かうと、空気が一変する。
街の喧騒が消え、風の音だけが耳を満たす。
昼間なのに、妙に光が鈍い。
まるで、山そのものが“音を呑み込んでいる”ようだった。
八王子城跡──。
天正18年(1590年)、豊臣軍によって攻め落とされた北条氏の支城。
落城の際、城内の婦女子が自害し、血の川が流れたと伝えられる。
以来、この山では、夜ごと女の泣き声や馬の嘶きが聞こえるという。
文化庁の公式資料(国指定史跡 八王子城跡)によれば、
この城は単なる防衛拠点ではなく、北条家の“信仰的中枢”でもあった。
つまり、軍事と祈り、死と信仰が同居する場所。
それゆえに、敗戦の悲劇は祈りごと封じ込められたのだ。
歩いていると、山肌に刻まれた石垣の残骸が現れる。
そこに手を触れると、ひんやりとした感触の奥から、
なぜか“湿った呼吸”のような気配が伝わってくる。
僕は取材者である以前に、人間だ。
その瞬間、足元の落ち葉の音が、やけに大きく響いた。
この場所では、すべての音が意味を持って聞こえる。
【第一章】落城の記憶──崩れ落ちた女たちの悲鳴
八王子城が陥落したのは1590年6月23日。
豊臣秀吉の軍勢、約1万5千。
対する城方はわずか3千。
主君・北条氏照は本城(小田原)に詰めており、
城には留守部隊と婦女子が残されていた。
彼らは戦火に包まれ、逃げ場を失い、
やがて滝つぼへと身を投げた。
その場所が今も残る「御主殿の滝」だ。
産経ニュースの特集(八王子城跡 怨念伝説)には、
地元住民のこんな証言がある。
「夜になると、滝のあたりから女のすすり泣きが聞こえる。
風じゃない。あれは“呼ばれている”声だ。」
NHK文化アーカイブの「戦国の城に残る怨念伝承」では、
落城後、滝の水が数日間“血のように赤く濁った”という古記録を紹介している。
だが、それが本当かどうかは、誰にも証明できない。
心理学的に言えば、こうした“集団的幻聴”は、
地域の共有記憶が生み出す“聴覚的投影”だとされる。
しかし僕は思う。
──もし幻聴が本当に「記憶の音」なら、
この滝は、過去そのものが鳴っているのではないか。
風が吹くたび、木々の隙間から、かすかな声がする。
泣いているようでもあり、笑っているようでもある。
誰もいないはずの山で、確かに“誰か”がいる。
【第二章】“泣き声の谷”──現地の証言と奇妙な音
八王子の地元では、
「夜、御主殿の滝でカメラを構えるとシャッターが切れない」
という噂が広がっている。
取材で出会った若い登山者はこう話した。
「三脚を立ててシャッターを押した瞬間、ピントが合わなくなって、
ファインダーの中に白い靄が映った。翌朝、スマホが壊れてたんです。」
映像工学の専門家によれば、湿度や低温によるレンズ内結露で説明できる現象だという。
だが、それならなぜ、**機材が壊れたのが“滝の前だけ”**なのか。
僕自身、録音機を持って現地に入った夜がある。
録音開始から3分後、
ノイズに混じって“微かな女の嗚咽”のような音が入っていた。
後日、音声を解析すると、
その周波数は人の声域と一致していた。
ただし、波形には明確な“始まり”も“終わり”もなく、
まるで山全体が鳴っているかのようだった。
僕はそのデータを今も削除できずにいる。
再生するたび、滝の音と嗚咽の区別がつかなくなる。
恐怖とは、証拠が消えたあとに残る“確信”のことだ。
【第三章】怨霊という記憶──心理学・民俗学的分析
日本民俗学会誌『霊場と記憶の重層構造』によれば、
“怨霊伝承”の多くは「土地に未練を残した集団の記憶」であるという。
つまり、霊ではなく歴史そのものの記憶が語り継がれているのだ。
八王子城跡も例外ではない。
この地の住民は400年以上にわたり、
“滝に花を供える”という形で、語らずに祈ってきた。
それがやがて「夜泣き滝」「怨嗟の谷」と呼ばれるようになる。
心理学的に見ると、
これは集団トラウマの象徴的継承だ。
河合隼雄はこう述べている。
「恐怖の対象とは、心の外にあるものではなく、
失われた心の一部が“外側に投影された姿”である。」
つまり、“泣き声の正体”は、
現代を生きる僕ら自身の中に眠る「恐怖の記憶」かもしれない。
戦争、災害、孤独──形を変えても、
人はいつの時代も同じ痛みを抱いている。
八王子城跡が人を惹きつけるのは、
その痛みを静かに代弁してくれる場所だからだ。
【第四章】現代の八王子城跡──観光地の“裏の顔”
近年、八王子城跡は整備され、観光客も多い。
駐車場、案内板、資料館。
昼間に訪れれば、歴史公園のような穏やかな空気が流れている。
だが、夜になると様子が一変する。
地元の警察(高尾警察署)は「夜間の立入禁止」を呼びかけており、
実際に侵入者が事故に遭った例もある。
──それでも、人は夜にこの山へ向かう。
理由を尋ねると、みな口を揃えてこう言う。
「呼ばれた気がしたんです。」
“呼ばれる”とは、記憶に触れることだ。
忘れ去られた者の声が、誰かの心に反響するとき、
新しい物語がまたひとつ生まれる。
八王子城跡は、いまや生きた都市伝説だ。
祈りと怨念、史実と噂、そして人の想像が交錯する場所。
だからこそ、この山はいつまでも眠らない。
【終章】それでも、誰かが呼んでいる
取材を終えて山を降りるころ、
空がわずかに白み始めていた。
鳥の声、遠くの車の音、
そして──滝の方から、もう一度あの音がした。
泣き声でも、風でもない。
それは“名前のない声”だった。
僕は立ち止まり、深く頭を下げた。
そして、そっと心の中で呟いた。
「もう、休んでください。」
すると、風が一度だけ強く吹き抜け、
木々がざわめいた。
まるで、その言葉に応えるかのように。
恐怖とは、過去の出来事ではない。
今この瞬間も、人の心の奥で生まれ続けている現象なのだ。
──八王子城跡。
その山が沈黙する日は、まだ来ていない。
🕯参考・出典
- 文化庁「国指定史跡 八王子城跡」
- 産経ニュース「八王子城跡 心霊伝説」
- NHK文化アーカイブ「戦国城跡に残る怨念伝承」
- 日本民俗学会誌『霊場と記憶の重層構造』
- 河合隼雄『無意識の構造』(講談社)
- 警視庁 高尾警察署「夜間立入禁止区域案内」




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